詩とは、命の業火である。
はじめに
はい、こんにちは。
かめれもん★です(^^ゞ
今回は、またしても、詩とは何かについて考えるわけですが、今まで考察してきた詩とは何かについて、少し頭を整理したい思いもあり、ここに記しておきます。
それでは、詩とは、何か?
わたしなりの見解を伝えておきます。
詩とは、何か?:詩は鮮烈な炎、命の業火である。

詩とは、炎です。
命の炎です。
しかも、激しく燃え盛るダイナミックな炎です。
詩は、それでいて、冷静で、静かに燃えているようでもあります。
詩の激しさは、リズム(韻律)に表れます。
たとえ、それが静かなリズムであっても、気持ちを抑えて冷静に書かれていれば、それも激しい詩と言えます。
詩は、衝動的とも言えます。
それほどまでに、切羽詰まった緊急性のある文学とも言えるでしょう。
ですから、熱い鉄のように、詩のタネが浮かべば、すぐさま打つ必要があるでしょう。
そして、いい詩には、やさしい雰囲気が漂っています。
あたたかい雰囲気もあります。
もちろん、醜くて、ありきたりの詩もありますが、そのような詩は、花と言えても、お店に飾ることができる詩とは限りません。
真に詩と言えるものは、時代を牽引するものでもあります。
詩は、志高く、人々を導き、それでいて、やさしいさざめきに満ちた詩がいいでしょう。
そのような詩が、現代の小説に立ち向かえる詩となり得ることでしょう。
詩と、小説の違い:自然であるか、人為的であるか。

詩は、自然食品と言うこともできるでしょう。
反対に、小説は、加工食品と言えるでしょう。
詩のように、自然由来のものは、食べていて、美味しいですし、やさしいものでもあります。
一方で、小説は、加工されたものですので、美味しいのは確かですが、身体には悪いかもな、と一瞬頭をよぎるかもしれません。
詩は、人のことを構うことなく、燃え盛る炎です。
それは、自然と咲く野の花と、大差ありません。
そのような花を見ていると、なぜか心が落ち着いて、忘れていた何かを思い出せるような気がしませんか?
詩は、猫とも変わらないかもしれません。
猫を見ていると、なぜか心が落ち着きませんか。
猫の自由奔放さに、あなたも救われていたりしませんか?
小説は、造花と言うこともできるでしょう。
見ていて美しいとも思いますが、どこか味気ない気持ちもします。
真に生きている花と、生命力の差が出てくるからです。
小説は、犬と大差ないかもしれません。
犬は言うことを聞いてくれますが、その犬はあなたの言いなりで嬉しいでしょうか?
犬だって、散歩してたら、どこかへ走り去って、自由になりたいかもしれませんし、一匹で自立して、自分の力で生きていく、そのような自信を欲しているかもしれません。
詩は、小説に劣っているように見えますか。
詩は、いつも、自由です。
そして、いつも、自分らしく輝いているのです。
小説は、いつも、何かに属しています。
人間が人間に、属しています。
寄り掛かり合って、いつでも、倒れてしまいそうなくらい、生命力に欠けている、とも言い換えることはできませんか?
小説は、消費されるものであり、長く心に、あたたかく残る火花とは言い難い。
そう言い換えることは、できませんか?
わたしは、詩の方が、命のさざめきを感じられます。
詩を読むと、生きている心地がします。
そのようなものが、簡単に分かるはずがありません。
真に詩と呼べるものは、限りなく、愛に近いのですから。
それでは、まとめです。
おわりに
詩は、一概にこうと呼ぶことはできないでしょう。
なぜなら、愛の質と量があまりにも大きいからです。
ですから、富士山が一望できそうな山の麓で、皆さ迷っています。
富士山は、高くて雲に隠れているけど、皆山頂を夢見ています。
たとえ、いい小説と呼べるものがあったとしても、その小説は、山の麓で繁盛している団子屋さんと、大差ないでしょう。
詩の片鱗を見ることはできても、すぐさま人間社会に目を向けてしまう。
詩が秘めている、人間の愛の潜在能力に、気づかないままで、生きていくことになるかもしれません。
真に詩と呼べるものは、言葉の力によって、富士山の山頂に登れた!と錯覚を起こすほどの、テクニックと、詩を愛する心からなると、わたしは信じています。
それでは、今回は、この辺にしておきます。
わたしが書いた詩関連の記事は、下に載せておきますので、ぜひよかったらご覧ください!
かめれもん★でした~(^_^)/~