「障害」は「障がい」で安心 あほか

はじめに

はい、こんにちは。

かめれもん★です(^^ゞ

今回は、「障害」が「障がい」表記で、世の中動いているのは、おかしくないですか?というわたしの個人的意見を言わせていただきます。

わたしは、発達障害であり、HSPですが、普通の一人の人間です。

障害を障がい表記にする、違和感に迫っていきましょう!

障害は障がい表記で安心 おかしくないですか?

よく「障害」を「障がい」と言えば、世間的に配慮してますよ、と念入りに言われているような気がしてしまいます。

しかし、これは、そのような気持ちが問題なのではなく、普段から使う言葉の力によって、暗に障害者が差別化されていると言っても過言ではないと思います。

障がい表記にすれば、たしかに、ネガティブな印象を減らせている気がしますね。

しかし、意図的にそれを隠している表記が見え見えです。

したがって、障害が障がい表記でまかり通ってしまうと、その人には障害があるけれど、あえて障がいと言おうか、

という差別的配慮が、多くの人たちに浸透していってしまう恐れがあるように感じます。

障害を障がい表記で発言する人たちは、障害者の気持ちを理解してますか?

わたしは、今まで社会的に差別、または隔離されているに近い状況で暮らす人たちをそれなりに見てきました。

それなりにというのは、単に自分が若くて経験不足だからですが、それでも多くの人たちを見てきました。

そのような人たちを見てきて、彼らはとても心がピュアで、強く健気に生きていこうとする力にあふれているような気がしてなりませんでした。

もしくは、障害を障がい表記にする社会的な圧力にあきらめを感じているような人たちも含めて。

障害とは、その人に障害があるのではありません

社会との壁で、それは形成されます。

社会の人たち、周りにいる人たちがうまく支援できれば、強く輝くような個性を放ってくれる人たちばかりです。

そんな人たちが、言葉で安易に、差別の風習にさらされてしまうというのは、おかしいとわたしは感じてきました。

実際に、そのような人たちと会ってこなかったから、そのような言葉を軽々しく使えるのかもしれませんね。

ですが、障害者にわざわざ会いにいこうという人はいないはず

だからこそ、障害がある、もしくはそれに近い立場に存在する人たちが、自己主張する義務というか、使命があるように感じます。

自分たちのことを知ってもらおうとする努力と、それに対する多数派の人たちの歩み寄りが合わさったとき、奇跡が起こるとわたしは信じています。

障害は障がい表記ではなく、不調とする考えに賛成!

精神科医の樺沢紫苑先生は、障害を不調とするほうがいい、とたしか述べていたと思います。

わたしは、この考えに賛成です。大賛成です。

作家でもある樺沢先生だからこそ、言葉の重要性が身に沁みて分かっているのだと思います。

というか、この考えが採用されれば、少しは世の中的に差別的配慮が改善されるような気がします。

差別というのは、なかなか直るものではないと思います。

ですが、日常で使う障害を、不調と多くの人が何回も使うことによって、短期的ではなく、長期的に改善されるような気がします。

ほぼ確信に近いです。

障害だと、どうしてもその人に問題があると考えられてしまう。

しかし、不調なら、どんな人にでもあるよね、わたしたちとそんなに変わらないよね、という認識に変わる可能性があります。

おわりに:言葉ですべて知ろうとするな 言葉のその先の意味を知れ!

言葉というのは、怖いものでもあります。

言葉のその先にある意味をそれほど知らなくても、誰にでも使われる可能性があるからです。

例えば、愛という言葉を、多くの人はその意味や本質をそれほど理解できていないでしょうが、適当に生半可な気持ちで使うこともできるのです。

障害者の方々は、本来、わたしたちと同じ命が宿っています。

あたりまえと言えば、あたりまえのことですよね。

わたしたちは、同じ人間ですよね?

すれ違うことがあってもお互いに寄り添えば、分かち合える可能性もあると思っています。

ですから、わたしは、障害者と世間的に言われる人たちが、勇気を持って、発言していくべきだと思っています。

そのために、社会や人というものをよく分かった上で、公正な意見を述べることが、この先、多くの人たちの未来を、より明るく、楽しい未来にできるとわたしは信じています。

今回は、少し重めの話で申し訳なかったです。

しかし、わたしは言わなければいけないことは言うか、行動に起こすタイプなので致し方なかったと思われます(笑)。

今まで、それで何度も人とぶつかってきたので・・・。

それでは、この辺で(^_^)/~

かめれもん★でした(^^ゞ